フィリー・ジョー後任のドラマー ジミー・コブがマイルバンドで活躍できた理由

マイルス ジミーコブ

今回もマイルス・デイビスと関わったドラマーをご紹介していきたいと思います。

ジミー・コブ(1929年-2020年)

前回の記事からは前後するのですが第一黄金期のフィリー・ジョー・ジョーンズの後にマイルスバンドに加入したドラマーがジミー・コブです。

ワシントンで生まれ育ち、夜な夜なラジオでジャズやオーケストラを聴く少年だったようで小さい頃からこの世界に憧れていました。

教会音楽でドラムを始めてジミーが21歳になる頃にはニューヨークでピアニストのウィントン・ケリー、アルトサックスプレイヤーのキャノンボール・アダレイなどのミュージシャンとツアーをするようになります。

その中でもキャノンボール・アダレイは『Somethin Else』という名盤をブルーノートレコードからリリースした際にマイルスにプロデュースをお願いしたり、共演もあることから、マイルスとの交流が深い人物でした。

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Blue Note

しばらく後、既にマイルスバンドで活躍していたフィリー・ジョー・ジョーンズがドラッグのやりすぎで活動が困難となります。

そこで後任のドラマーを探しているマイルスにキャノンボールが推薦したドラマーこそがジミー・コブだったのです。

マイルスがジミー・コブを気に入った理由

実はフィリーの後任ドラマーには既にアート・テイラーというドラマーが数回入っていました。しかし例の事件でマイルスとケンカをして公演の途中で出ていったため、その時にサブで呼ばれたのがジミー・コブだったそうです。

その時期のマイルスはドラマーに「フィリーのように叩いて欲しい」と再三要求していたそうですが、ジミーには「フィリーとは違う特別な何かを持っている」と感じたのかフィリーと比べることをしなくなったとのこと。

“特別な何か”が具体的にどれを指しているのかはわかりませんがアフリカ的なグルーヴ感、ザクザク切り裂いて進むような推進力があるシンバルのビート、シンプルにはっきりコンピングするスネアが音楽的にハマったではないかと思います。

そして、教会音楽出身なのがキーになっていたのかもしれません。

教会音楽をジャズに取り入れたモードというスタイル

マイルスはそれまで演奏していたバップというスタイルが完成形に近づき、もう次の段階に進むことを考えていました。

このとき頭に思い浮かんだのが、現在でもよく演奏されるジャズのスタイル、モードです。

詳しくは教会旋法という教会で使われるスケール(音階)のことで、マイルスが子どもの頃に聴いた教会の素晴らしいサウンドを再現したかった、というところがアイディアの起点となっています。

なので教会音楽がルーツになるジミー・コブはまさに天からの啓示のようなハマり役だったかもしれません。

そうした出来事の重なりからマイルスバンドでの演奏が本格的にバップからモードに移行します。このときにはかなり繊細で綿密に作られた音楽が多く、バップのように激しくドライブするような演奏から静かに淡々としている曲を集めたアルバムが続きます。

ジミーコブが関わったマイルスのアルバム

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ソニーミュージックエンタテインメント
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こうみるとどれも名盤になっていて個人的に好きなアルバムが多いです。特に「1958 Miles」は聴きやすく中身もいいので何度も聴きました。

「Someday My Prince Will Come」も世界的名盤でどんな方でも受け入れやすいジャズのアルバムになっています。

メロディをサポートするドラム

ジミーの参加したアルバムではどれもメロディや楽曲をサポートするようなドラムを叩いているのが特徴的です。

このときのマイルスのバンドのメンバーとしては、ピアノにウィントン・ケリーもしくはビル・エバンス。サックスはキャノンボール・アダレイまたはハンク・モブレイ。そしてベースはポール・チェンバースという構成。

ピアニストから見てわかるようにだいぶ繊細なプレイヤーを選んでますし、ジャズもクラシックも精通しているメンバーを選んでいます。

これはマイルスがモードをやりたかったので、それを実現できるプレイヤーを集めている、ということでしょう。

ジミー・コブもメロディやコードをうまく引き立たせるプレイができるのでバンドになくてはならない存在となります。マイルスはあまりジミーのことを多く語ってないのですが、演奏を聴くかぎり信頼をかなり置いているのは確かです。

メロディに焦点が当たっている分フィリーやトニーみたいにスター性のあるドラマーとはいかないですがこのモードジャズを確立するのにとても重要な役目を果たしています。

名盤「Kind Of Blue」の裏話

マイルスがあの名盤「Kind Of Blue」で求めたものは自然発生的なインタープレイでした(Kind Of Blueはセールス面でも異常な売り上げを記録しています)。

なのでやることを最小限にするため何小節かのメロディをスケッチしてバンドメンバーに渡し、彼らの想像力に任せて音楽を創っていきました。

バンドメンバーのレベルが高く全部ワンテイクで録れたそうですがマイルスの再現したかったこととは違ったようで本人はこのアルバムは失敗と言っていたそうです。

ですが現代のジャズにおいては、さまざまな面においてなくてはならないアルバムとなっていると言えるでしょう。

マイルストリビュートのアルバム

ジミー・コブは1959年にマイルスバンドに入り1961年に自らバンドを辞めていきました。理由としてはウィントン・ケリーやポール・チェンバースとのピアノトリオをやりたかったからだそうです。

別にマイルスバンドに所属したままでもよかったような気はしますが本人的にはもっとバップのような音楽をやりたかったのかもしれません。

その後はサイドマンとしてかなり活躍していきますが初めてリーダーアルバムを出せるようになったのが1983年、54歳のときでした。

そして2011年の時に「Remembering Miles ~Tribute To Miles Davis~」というアルバムを出します。

メンバーはトランペットにエディ・ヘンダーソン、ピアノに海野雅威さん、ベースにジョン・ウィーバーが参加しています。

曲目も「1958 Miles」のアルバムから選んでいるものが多く、マイルスと共有した思い出の曲たちが収録されていますがどれもフレッシュなサウンドに仕上がりつつマイルスへのリスペクトも含まれています。

音楽全体で聴くとあまり目立ちはしませんがジミーのやっていることにじっくり耳を傾けているとドラムの奥深さを感じることができます。

派手さはないですがきっちりと仕事をこなし、まさに縁の下の力持ちを再現できるミュージシャンというのは多くありません。現代ジャズを理解するうえでも大切な時期を活躍した方ですので、ぜひこの機会に注目してみてください。

今回オススメしたアルバムはどんな人が聴いてもハマりやすい曲調だと思いますのでライトなジャズファンにもオススメですよ。

それではまた、次回。

前回までのマイルスバンドのドラマーシリーズはこちらから。

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野澤宏信 1987年生。福岡県出身。12歳からドラムを始める。2006年洗足学園音楽大学ジャズコースに入学後ドラムを大坂昌彦氏、池長一美氏に師事。在学中には都内、横浜を中心に演奏活動を広げる。 卒業後は拠点をニューヨークに移し、2011年に奨学金を受けニュースクールに入学。NY市内で演奏活動を行う他、Linton Smith QuartetでスイスのBern Jazz Festivalに参加するなどして活動の幅を広げる。 NYではドラムを3年間Kendrick Scott, Carl Allenに師事。アンザンブルをMike Moreno, Danny Grissett, Will Vinson, John Ellis, Doug WeissそしてJohn ColtraneやWayne Shorterを支えたベーシストReggie Workmanのもとで学び2013年にニュースクールを卒業。 ファーストアルバム『Bright Moment Of Life』のレコーディングを行い、Undercurrent Music Labelからリリースする。 2014年ニューヨークの活動を経て東京に活動を移す。現在洗足学園音楽大学の公認インストラクター兼洗足学園付属音楽教室の講師を勤める。