マイルス・デイビスというトランペッターがいます。
ジャズについて話すときは特に、何かにつけ「あのマイルスが〜」と言いますが、このプレイヤーはジャズを語るときには欠かせない人物。
当サイトのサイト内検索で「マイルス」と調べるとかなりの記事が引っかかって出てくるのでもし知らない方がいたら検索してみてください。ほかにもインターネット、本、雑誌などでジャズの特集があると必ずと言っていいほど頻出します。
マイルス・デイビスという人物がこれだけ著名となるにはいくつも理由がありますが、今回注目したいのは、マイルス・デイビスの人選能力。
マイルスの作る曲や演奏はもちろん素晴らしいです。しかし、それは彼1人で創りあげるものではなく、周りにいるメンバーがマイルスの意図を理解して演奏するからこそ。
自分自身のソロや演奏だけが中心となるように構成、演奏するのではなく、同時代の中ではかなりバンドサウンドを重視していました。
しかし、適切なアドバイスを口ですることはあまりなく、プレイで示して引っ張っていくリーダーという特異さ。
並のプレイヤーでは今目の前で広げられる演奏に対してどのように対応すればいいのか分からなくなることも多かったでしょう。
バンドメンバーは相当考えて音楽していたでしょうしマイルスバンドにいるというプレッシャーの中で自分のスタイルを探しマイルスのまだ世の中にないような演奏を支えていきます。
そのためかマイルスバンドを経験したプレイヤーはほとんどが現代ではレジェンドと呼ばれるプレイヤーへと育っていきます。
今回はそんなマイルスバンドに在籍していたドラマーにスポットを当て、どのようににマイルスと関わってきたのかご紹介していきます。
フィリー・ジョー・ジョーンズ(1923年ー1985年)
フィラデルフィアで生まれ育ち、タップダンスも嗜みながらドラムも叩く子供時代でした。
第2次世界大戦の徴兵が終わったあとはニューヨークへ移りカフェ「ササイエティ」という場所でハウスバンドを務めビバップをリードするドラマーとして成長したのち、1955年から1958年の3年間マイルスバンドを支えるドラマーとなります。
3年間という短い間ですがマイルスの第一黄金期バンドでありビバップの完成形とまで言われるバンドにまでなっています。
この時のメンバーはマイルスとフィリーの他に、
■ジョン・コルトレーン(テナーサックス)
■レッド・ガーランド(ピアノ)
■ポール・チェンバース(ベース)
という3人がクインテットとして活動していました。改めて見るとみんなスペシャリストですね。この時代のフィリーのドラムは抜群に飛び抜けています。
マイルスバンドを支えられるフィリーの力
フィリーの魅力はざっくり3つです。
1.スムーズなスイングビート
フィリーのビートはもちろん強力なんですがシンバルのタッチは粒だちがよく繊細なほうだと思います。なのでミディアムテンポの時はパワーで押し通すのではなく、少しライトに叩きながらベースラインをサポートしている感じにも聞こえます。
マイルス・デイビスのCOOKIN`というアルバムでこの様子を見てましょう。
フィリーは他のドラマーより空気が読めるタイプなのでエンジンがかかった時のフィリーは超強力です。
Tune Upという曲では自分で完結させることなくポールチェンバースを活かすスイングします。これができるプレイヤーは多くありません。見事ですね。
2.ソリストをプッシュするコンピング
コンピングは出しゃばることはなしないですがマイルスやコルトレーンが吹いてからレスポンスする瞬発力が恐ろしく高いですし強力にプッシュします。
ソリストとコミュニケーションをとりながら音楽をプッシュしていくこの感じはコンピングの理想形の一つかもしれません。
そして何よりすごいのがピアノのレッド・ガーランドとの絡み。ピアノもコンピングしているのですが尋常じゃないほど息がピッタリです。
“Tune Up”ではテナーソロ(2:50)から、”Airegin”だとテーマ終わりのマイルスのソロから(0:49)のレッド・ガーランドのコンピングとフィリーのコンピングが1音も外すことなくリズムがピッタリ合う場面がたくさんあります。
予知能力でも使ってるんじゃないかと思うくらい凄すぎて最初は言葉になりませんでした。
バンドで長く経験したのち相手がどういうコンピングをしてくるかを知って合わせてきています。ですがどのタイミングでどう使うかはお互いその場にならないとわからないので感覚的に合わせてるとは思います。恐ろしすぎです。
3.昇華されたソロフレーズ
イントロやトレードで魅せるドラムソロの部分は本当に芸術的です。
ドラマーみんなが通るアラン・ドーソンが作ったルーディメンツ(基礎フレーズ)本があるんですがドラムセットで応用してこのルーディメンツを昇華させたのはフィリージョーでしょう。
このルーディメンツを練習すればするほど高度な技術というのも分かりますしフレーズが持つ奥深さも学ぶことができます。
それをいとも簡単にやってのけて更に芸術的に聴かせるフィリージョーは神の領域です。トッププレイヤーもが憧れるフレーズと音色を持っています。
マイルスのSTEAMIN`というアルバムの中のSalt Peanutsでの2:40あたりからドラムソロが始まります。
フィリーは右手のライドシンバルでポール・チェンバースとスムーズなビートを作っていき、左手のコンピングでレッド・ガーランドと強力にコンピングして自分のターンになったらすかさず積極的に攻めるという完全無欠の存在です。
それだけでなく空気が読めるドラマーでもあるのでソリストが変わった時にプレイも変化させています。このシーンを変えることをプレイヤーの中ではカラーを変えると言ったりします。
カラーが変えられるドラマーは他にもいますがここまで分かりやすくカラーを変えられるドラマーはこの時代フィリーの他にいないでしょう。
マイルスからどう思われていたの?
マイルスからの信頼は厚いものでした。マイルスのほうが2,3つ歳が上ですが先輩後輩という感じではなく対等な感じで仲が良かったそうです。
このマイルスバンド第一黄金期になるきっかけもフィリーが担っていて、テナーサックスをいれる際にマイルスに相談されてコルトレーンを連れてきたそうです。
演奏面でもフィリーのプレイスタイルをとことん気に入っていたらしく、特にフィリーリックがマイルスのお気に入りでした。
そのフィリーリックとは2拍3連で入るリムショットのことです。
下の動画では1:05あたりのところ、アルバムではWORKIN`というアルバムのFourという曲中です。
このリックを入れてほしくてマイルスはあえて自分のソロの途中で間を開けてリックを誘ったりしていました。そしてそれにフィリーがちゃんと応えてくれるのでマイルスは理想通りの演奏ができたらしいです。
そんなフィリー・ジョー・ジョーンズですが最終的にマイルスバンドをクビになります。
しかしフィリーの後を任されたアート・テイラーにも、マイルスはフィリーと同じようにやれとしつこく言い、ある日ステージの途中であまりに同じことを言われすぎて起こって帰ってしまったそうです。。
あまりにフィリーのプレイが好きだった、そういった一面の垣間見えるエピソードでしょう。
なぜマイルスはフィリーをクビにしたのか。
それはフィリーとドラッグの関係によるものでした。
マイルスはクスリを断ち切っていましたが(マイルスもドラッグ中毒経験者です)フィリーはどっぷりヤク漬けだったらしくそれが仕事にも影響するのがイヤでクビにたそうです。
どれくらいのレベルかというと演奏中クスリが切れて気持ち悪くなって、急にトイレに行ったり(トイレから戻ってきたら何食わぬ顔をして演奏に戻る)、ツアーの道中でヤクの売人のところに行くために雪の降る中でメンバーに付き合わせたりなど、人間性という面ではあまりよろしくない話がたくさんあります。
これではクビにされてもおかしくない、と思わざるをえません。。
それでもフィリーとマイルスは気が合う仲なのでクビにするのは相当辛かった、というエピソードも残っているそうです。
マイルスバンドで活躍したフィリーのオススメアルバム
最後にマイルスバンドで輝いてた時のフィリーが聴けるアルバムをご紹介します。オススメは特にマラソンセッションで作られたアルバムたちです。
他にも「Milestones」というアルバムを出しています。
このアルバムもバップの流れに沿ったアルバムですがアルバムのタイトル曲の「Milestones」はモードジャズに繋がる作品となっており、ビバップの完成した音楽と次の時代にくるモードジャズが交差する貴重なアルバムです。
フィリージョーはマイルスバンド以外にも50年台後半から60年台前半にかけて多くのミュージシャンと数え切れないくらいのレコーディングをしています。
今回はそっちに焦点をあててないですがブルーノートレーベルでソニークラークやデクスターゴードン、ハンクモブレイなどのレジェンドと相当な名盤を残しているのでそちらも必聴です。
60年台後半からは第一線から退きヨーロッパで活動していてその活動ペースもゆっくりとしたものでした。
なのでマイルスとやっていた数年が一番アブラが乗っていた時期だと思いますが、この時代だけでも大きくジャズの歴史を動かしたと思います。
聴いたことないかたはぜひ聴いておくドラマーですし、聴いたことあるかたもこの記事を読んで久々に聴いたら新しい発見があるかもしれません。