前回までジャズの帝王マイルス・デイビスに関わったドラマーたちを紹介してきましたが他にもマイルスと関わったミュージシャンたちがいるのでその方たちを紹介していこうと思います。
今回はマイルスと深く関わった作編曲家ギル・エバンスにスポットを当てていきます。
どうやってマイルスと知り合ったのか、そしてどういう関係を築いて当時の音楽シーンを動かしてきたのか、ジャズファンなら抑えておきたいですね。
ギル・エバンス (1912年-1988年)
ギル・エバンスはカナダのトロント出身でストックホルムで学生時代を過ごします。
この頃、現在とちがいジャズは流行の音楽ですからラジオから流れてくるデューク・エリントン、ルイ・アームストロング、フレッチャー・ヘンダーソンなどの演奏を聴いて憧れを抱きます。
大学生になるころにはピアノと編曲を勉強し地元のミュージシャンを集め、自身がアレンジした曲をプレイヤーに演奏させるなど、音楽への憧れを仕事へと変えていきます。
この前後で集めたメンバーでビッグバンドを組みツアーで各地を回ると、最終的にはハリウッドでの公演がレギュラー化されるほど有名になっていたというのでいわゆる学生の音楽活動、という枠を越えた活躍をしているのが分かります。
エバンスのスタイルはジャズ一辺倒、という訳ではなく、アレンジにはクラシックに影響された部分が多分にあるというのも特徴的です。
その後第2次世界大戦で軍に駆り出され戦後まもない1946年にニューヨークに拠点を移しました。
当時34歳くらいです。ここからマイルスとひょんな出会いをして音楽シーンを大きく変えていくことになるとは、本人も周囲も知ることはなかったでしょう。
マイルス・デイビスとの出会い
マイルスがチャーリー・パーカーのバンドで活動していた時期のこと。マイルス初めての作曲となるオリジナル曲「ドナリー」をパーカーのバンドでレコーディングします。
その後革新的な曲やアルバムを数々発表することになるとはいえ、新人の、初のオリジナル曲です。おおきな期待感や達成感を抱いていたでしょう。
しかし、レコードが発売されたところクレジットのドナリーの作曲者がチャーリー・パーカーとなっていることが判明します。
これはパーカーが勝手に自分の曲にしたと言われている説もありますが実際のところレコード会社のミスだそうです。
おそらくマイルスはかなり憤慨したでしょう。残念な気持ちも大きかったと思います。
しかし、このドナリーという曲をニューヨークで活動していたギル・エバンスが聴き、感銘を受けます。何かこの曲をアレンジできないだろうかと考えチャーリー・パーカーのところへ直接行ってみることにしました。
そしてパーカーが実際のドナリーの作曲者マイルスを紹介することで2人が出会うことになりました。
ギルはドナリーの楽譜がどうなっているのか興味があり、マイルスもギルが作った「ロビンズネスト」という曲が気になっていたので楽譜のコピーを交換したそうです。
そしてマイルスはギルの譜面を見ただけでそのアレンジを気に入りました。
ギルもマイルスのプレイスタイルを好きだったのでお互い惹かれあっていきます。
その後ギルは「ドナリー」をアレンジして演奏しますが、ここだけの話マイルスはこのアレンジだけは気に入らなかったそうです。。
「ドナリー」という曲は速さが売りの構成ですが、ギルのアレンジはテンポも曲の雰囲気もかなり落ち着いていたのでマイルスの思っていた感じとは違ったとか。
ジャズの歴史に残るような出会いであっても、やはり最初からすべてうまくいくわけではないですね(笑)。
マイルスとタッグを組んでアルバムを出す
1948年にギルはチャーリー・パーカーのためにアレンジの仕事をしたいと思い、それまで担当していたクロード・ソーンヒル楽団を辞めます。
パーカーの自宅の近くにアパートを借り、そこにパーカー自身も遊びには来ていたのですが飲み食いして帰るだけでギルのアレンジを全く聴こうともしませんでした。
ようやくパーカーがギルの音楽に興味を持った頃にはギルの熱も冷めていて近くにいたマイルスと仕事をやろうと決意したそうです(一応その後にパーカーとのコラボはできました)。
マイルスはギルのアレンジをとても気に入っていました(ドナリーを除きw)。「ゆったりとした雰囲気でソロを取りたかったのをギルはよく理解していてそれを曲として表現できるのはギルだけだ」とマイルスが言い切っていることからも信頼のほどがうかがえますね。
楽器の編成はギルが決め、曲やコンセプトはマイルスが決めることで話を進めていたそうです。メンバー集めはお互いで候補を出し合いながら決めているというので本当に共作です。
ギルはアルバムで出す曲のアレンジを、考えても考えても出ないスランプ(1週間で8小節しか書けないこともあった時期)なども経験しながら、マイルスと、ほかにも何人かのミュージシャンの協力を得て1枚のアルバムを完成させました。
それがマイルスのディレクションのもとで1949年に発表された「Birth Of Cool(クールの誕生)」というアルバムです。
このアルバムでは口ずさめるようなメロディにオシャレなムードが表現されているというファッショナブルな部分がコンセプトに据えられています。
一方、発表当時に流行っていたジャズはパーカーやディジー・ガレスピーのようなテクニックと速さを極めるようなジャズばかりだったので一般のリスナーは理解できなかったり、難解であったりと置いていかれるばかりだったそうです。
しかしBirth Of Coolは対照的で、一般的にも聴きやすいデューク・エリントンやクロード・ソーンヒル楽団のようなサウンドを目指したアルバムであり、ジャンルです。
結果として世間的には白人のミュージシャンが増えてジャズの間口が広がることにつながります。
2作目の「Miles Ahead」
2人で出した次のアルバムは「Miles Ahead」です。
1957年のリリースですが1枚目からはだいぶ時が経っています。
Birth Of Coolの後も2人はよく顔を合わせていたそうですが、マイルスがヘロインなどの薬物にはまり音楽活動に専念できない時期もやってきます。
そんな時、ギルも声をかけ、周囲のサポートによってなんとかクスリを断ち切ることができたそうですが、やはり2枚目までに期間が空いたのはこういった部分の影響も大きいでしょう。
この頃のマイルスとつるんでいたメンバーはポール・チェンバースやアート・テイラー、ジョン・コルトレーンなどのバップを演奏するメンバーばかりでした。
しかしアルバムコンセプト的にはバップの路線から少しずれているために他にもスタジオ系のミュージシャンを雇ってMiles Aheadをレコーディングします。
そしてあのマイルスのお兄さん的ポジションのディジー・ガレスピーもこのアルバムをすごく気に入り、レコードが擦り切れるまで聴いたそうで「もう1枚くれ」とマイルスに直接言いに来たそうです。マイルスとしてはこのとこが相当嬉しかったようですよ。
難産になったアルバム「Sketch Of Spain」
Sketch Of Spainはマイルスとギルの共作の中でも最高傑作と言われることも多いアルバムです。
アルバム制作はマイルスがたまたま知人のミュージシャンから「アランフェス協奏曲」を聴かされたところから始まります。
この曲はスペインの作曲家ホアキン・ロドリーゴが作ったもので、スパニッシュなスケールなどがふんだんに用いられた特徴的なメロディを持つ音楽です。
このメロディをとても気に入りギルとならこのアイデアを使って面白いことができると制作を開始します。
マイルスは先述の特徴的なメロディを吹くためにスペイン音楽の勉強と研究を重ねその中にアフリカ的な要素を見出しました。
この「アフリカ的な要素」にはマイルスの考えがたくさん詰まっているのでしっかり説明すると複雑になってしまいますが、簡潔にいうと、“喜びを感じながらも悲しさを表現しなければいけないこと”と解説できるでしょう。
それも即興でやることに意味があり言葉のようにメロディを吹くこと、表現する感覚を損なわないために数テイクでやらなければいけない、という難しい課題があることも感じたようです。
確かに同じフレーズを何回もやると、やらされているような強制感が出てくるので説得力が違ってくるのはわかります。
ギルはギルでこの難しい要素をより深く表現するためのアレンジを完璧に仕上げてきました。8小節書くために2週間費やすのも当たり前ですし、メンバーごとの個別のアレンジも書きあげていきます。
なんなら息継ぎのタイミングまで書き込んであってサウンドをどのように運んでいくか、ギルとマイルスの頭の中では完全に仕上がっていたのでしょう。
しかしほかメンバーはこの緻密な音楽に苦戦します。もう、それはそれは苦戦します。
なぜならマイルスが言うには「メンバーが楽譜通りにしか吹かないから」だそうで、マイルスからバンドに「楽譜通りに吹くな」と言ったところみんなポカーンとしたらしく、マイルスとギルはメンバーを何人か入れ替えました。
マイルスとしては楽譜から感じ取って感覚で演奏して欲しかったそうですが、ほとんどのメンバーには通じませんでした。楽譜の作り込みが激しいことからも、まあ、要求が高度すぎますよね。。
メンバーが変わったせいでギルもアレンジを変えなければと思い再度手を加えていきます。
そしてアレンジやマイルスの頭が整理できた段階でレコーディングが行われマイルスとギルの2人が想像したものがようやく形となりました。
マイルスは全てを出し切ったのでプレイバックも聴かずにスタジオをあとにして結局完成版を聴いたのは1年後となったそうです。
今から語るのは「Sketch Of Spain」の伝説の話です。
引退したスペインの闘牛士が「Sketch Of Spain」を聴く機会があったそうで、最初その闘牛士はアメリカの黒人ミュージシャンがスペイン音楽なんて演奏できるわけがないと見下していました。
ですがレコードを流すとその闘牛士はじっと音楽に耳を傾け、聴き終わると眠っていた闘牛服を引っ張り出し牛と闘い殺してしまうほどこの音楽に感動したそうです。
伝説ではありますが、それほどすばらしい作品であった、というのは歴史的な評価を見てもうかがいしれます。
アレンジャーという職業を確立した人物
マイルスと関わったアルバムはこれがメインとなりますがギル・エバンスのこの功績によりアレンジャーとして育っていく人物が増えました。
あのマリア・シュナイダーもギル・エバンスのもとで勉強して育った1人です。
緻密なアレンジを頭で鳴らすことができてそれを時間かけて1つの作品としていくのは本当に神業です。
それをマイルスのプレイも見据えてアレンジしているのでこれほどの逸材はいないでしょう。そして残した作品はみんなのお手本となって今でも研究されるものとなっています。
マイルスもギルもお互い繋がる部分が多いことからマイルスがやりたいと思う抽象的な部分をギルが譜面に具現化し、それをまたマイルスが音楽として表現するというこのサイクルが見事です。
マイルスが絶賛するギルエバンスのアレンジを今回紹介した3作品でぜひ味わってみてください。