マイルス・デイビスと関わった人物シリーズ、今回はマイルスが憧れたプレイヤーでもあるチャーリー・パーカーをピックアップしていこうと思います。
パーカーの生い立ちは軽めでマイルスとの関わりがメインです。
それではさっそくいきましょう。
チャーリー・パーカー(1920-1955)
パーカーは、ジャズファンなら知らない人はいないほど有名なので説明不要なくらいだと思いますが、一応説明させてもらうとアルトサックス奏者でジャズの転換期の要因ともなったビバップ(長くなるのでビバップについては割愛)の生みの親と言ってもいいプレイヤーです。
周りからは”バード“とも呼ばれていて、鳥のように自由自在に音楽の中で飛びまわることができるのとチキン好きだったことからこのように呼ばれていたと言われています。
ニューヨークにあるバードランドというお店の店名は彼の愛称バードからとられていたり、”バードランドの子守唄”という曲名もここからきています。
バードが活動しだした時期は大人数編成で演奏されるビッグバンドがまだ大衆音楽だった頃。
その後、ビッグバンドという編成での音楽が飽和状態になり、もっと少人数構成で、もっと自由に演奏できる方法はないかと真逆の音楽を実験しはじめたことで彼の名が知れ渡っていきます。
この真逆の音楽というのが後にビバップと呼ばれる音楽になり、ディジー・ガレスピーというトランペッターと一緒に完成形へと導いていきます。
そんなバードとマイルスの出会いはセントルイスでのライヴでした。
マイルス・デイビスとチャーリー・パーカーとの出会い
マイルスはニューオリンズのセントルイスで生まれ、幼い頃からラジオでデューク・エリントンやディジー・ガレスピーバンド、そしてもちろんチャーリー・パーカーなどの演奏を聴いて育ちました。
この当時、ジャズがもっとも発展しているのはニューヨークであり、上記のほかにもさまざまなミュージシャンが集まり、新しい音楽を次々と発表していました。
マイルスはそんな彼らに憧れ、演奏活動をスタートし、ニューヨークにあるジュリアード音楽院という音大を目指します。
ちょうど大学に行く前にパーカーとディズ(ディジー・ガレスピーのこと)のバンドがセントルイスに演奏にきていました。そしてなんとマイルスはそのビッグバンドのトランペッターの代役で急遽ステージに上がることになったのです。
現在ではあまり聞きませんが、当時は代役でステージに上がるという話が意外と多く残されており、今よりも自由でラフなライヴであったことが想像できます。
ディズとパーカーと一緒に演奏したこのとき、マイルスはニューヨークにいこうという決心をつけます。
やはり当時最先端の演奏をするプレイヤーとステージに上がれば、誰でも同じ思いを持ったかもしれません。
2人からも「ニューヨークに来たら顔を見せろよ」と言われたそうです。
パーカーに会いにニューヨークへ
マイルスは顔を見せろよと言われたことを頼りに、ニューヨークについてからパーカーとディズを探して歩き回りました。
まずはビバップでの演奏が頻繁に行われていたライヴハウス「ミントンズ」に訪れて多くのジャズメンと交流することになります。
ここでのセッションは下手なプレイをすると店の外に追い出されてボコボコに蹴られるほど厳しかったそうで、ファッツ・ナバロやミルト・ジャクソン、セロニアス・モンクなどその後のジャズの歴史に残るような名だたるメンバーがセッションに参加していました。
しかしバードだけはセッションに一向に現れず、2週間してようやくディズに会いました。ディズはマイルスのことを覚えていてくれたらしく話も弾んでバードのことも聞きましたがディズすらも居場所がわかりませんでした。
マイルスはバードの家を教えてもらい近所のコーヒーショップでうろうろしたりバードがいきそうなジャズクラブに顔を出したりするなど、彼を探し続けます。
探せば探すほど周りの人からは「バードと関わるとろくなことがないから会うのはやめろ」と散々な言われかたをし、若きマイルスは不快な思いをしたそうですが、それでもあきらめず昼はジュリアードで勉強し夜はジャズクラブを転々としていました。
それでも消息は分からず道でぼんやりしていると後ろから声をかけられます。
なんと、そこにはバードが立っていました。バードはマイルスのことを覚えていたのでマイルスは飛び上がるほど嬉しかったそうです。
その後すぐに2人は「ヒートウェブ」というジャズクラブに入ります。そのクラブでバードは王様扱いされ、サックスを持って演奏を始めました。
このときの様子を「世の力と美がそこに満ち溢れるほどすごかった」と後にマイルスは語っています。
これを機会にマイルスはビバップの重要な要素であるコードの勉強を深めたり、ディズやバードのところに行って色々教わったりして力をつけていきます。
そして「ミントンズ」でディズとバードが開催したセッションにも出向きます。
ここではディズかバードに名前を呼ばれたらステージに上がることができ、そこでいい演奏ができたらみんなが笑顔で迎え入れてくれるというオーディションみたいなセッションが開かれていました。
マイルスも名前を呼ばれてステージに上がり自分の音楽を出し切りました。見事バンドのみんなが笑顔で迎え入れてくれ、ここで晴れてニューヨークのミュージシャンとして一歩を踏み出します。
急にパーカーのバンドに参加?!
パーカーと一緒にバンドをやっていたディズはユーモアがあり時間やお金にも真面目で後輩の面倒見もいい理想的な人でした。
パーカーは真逆でヘロインをやるために周囲の人に嘘をついてお金を借りたり、自分の楽器を質屋に出してヘロインを買うほど、演奏はともかく人間的にはあまりよくない部分の多い人でした。
そんなパーカーに嫌気がさしてディズはバンドを辞めます。それも「スリーデュセス」というクラブでのライブ前での脱退となり、困ったパーカーは近くにいたマイルスに声をかけ「今日からオレのバンドのトランペッターだ」とマイルスに告げます。
こうして、マイルスのパーカーのバンドへの参加が決定しました。
マイルスはひょんなことから加入することになったものの、憧れのパーカーと一緒に演奏できることは嬉しかったそうです。
しかし、毎日ビクビクしながら演奏していたと言います。
そりゃあ前のトランペッターが当時のトップランナーの1人であるディジー・ガレスピーですし隣で吹いているのがチャーリー・パーカーとなれば自分がいなくても十分音楽が成立すると思いますよね。。
辞めるそぶりも見せたそうですがパーカーは「オレが気に入っているからお前は必要なんだ」とマイルスに言っていたそうです。
マイルスがチャーリー・パーカーのバンドに参加した作品
ここら辺のアルバムは1945年頃にレコーディングされたアルバムで、その後「ジャズの帝王」とまで呼ばれたマイルスの、憧れのパーカーバンドにおける駆け出しの頃の演奏が聴けます。
音色はマイルス独特のトーンを持っているのですが、まだまだ甘いところが多くあり、私としては完成されたマイルスを散々聴いているので物足りなくは感じます。
しかしこの初々しい演奏から彼の人間らしい一面を感じられるので、個人的には好印象なアルバムです。
「The Charlie Parker Story」は有名曲”Bille’s Bounce”や”Now’s The Time”、”Koko”などが収録されています。
この頃はLPの都合で1曲数分しか録れないため最後まで録り終わる前に途中で終わってしまう曲がいくつもありますが、間違えて録り直しするようなテイクも入っているので貴重なCDですね。
商品としては完成したものだけ欲しいですしミュージシャンも間違えた曲とかは消して欲しいと思うような気がしますが。。ジャズマニアとしては楽しめそうです。
https://www.discogs.com/ja/release/2008484-Charlie-Parker-Ornithology
パーカーの場合コンピレーションアルバムが多いため入手が難しいですがこのアルバムもオススメです。
マイルスもだいぶ吹けるようになっていてディズのように高音で吹いたり速吹きしたりするなど、テクニックが磨き上がっているのがわかります。
最終的に…
順調そうに見えたマイルスとパーカーの関係ですが、ディズと同じようにパーカーの人間のダメさ加減に嫌気がさしてマイルスもバンドを辞めることにします。
パーカーだけではなく、マイルス以外のバンドメンバーもヘロインでハイになっていたり、ギャラが支払われなかったり(パーカーがクスリを買うためにギャラを使っていました)、パーカーは精神を患って病院に入退院を繰り返したり、ステージでウケを狙うために下ネタを言ったりするなど破天荒すぎてついていけなくなったそうです。
それまでは、どんなに破綻した生活を送っていても楽器を吹けば神様の如く凄かった、とのことですが、徐々にクスリのやりすぎで演奏もおぼつかなくなってしまいます。
パーカーの人気はそれでも“ものすごかった”そうですがマイルスは見切りをつけ自分のバンドや「クールの誕生」などの自身の活動に力を入れていくことにしました。
マイルスが言うには「バードのテクニックが凄すぎてバンドにいても何も学べなかった」とのことですが明らかにテクニック的にも演奏の内容的にもここでレベルアップして自分のキャリアにつなげています。
そしてレコード会社がマイルスに目をつけてくれたのもパーカーのバンドで活動していたからこそなので、なにはともあれパーカーの恩恵は相当受けています。
マイルスはパーカーのことをめちゃくちゃに言っていることも多いですが実際はパーカーの音楽をすごく尊敬していたでしょう。
そして、マイルスが少年の時に憧れたプレイヤーとバンドができたのは、ほぼこの時だけであった、というのも、すこし、皮肉なお話だなと感じます。