クラシック音楽とジャズの違いをプロのジャズミュージシャン目線で考えてみる

クラシックトランペットとジャズトランペット

最近知り合いのクラシックトランペット吹きに演奏技術などを教えてもらったりしましたが、やはりクラシックをきっちりやってきた人はその辺のプレイヤーとはわけが違います。

相手は年下でしたが文字通りフルボッコにされて帰ってきました(笑)。

僕自身は頻繁にクラシックを聴く方ではありません。練習でほんの少しやっているくらいです。

しかし、そもそもトランペットという楽器の性質からしてクラシックに触れておくということはとても重要なことです。

またトランペット以外の知り合いのプレイヤーに尋ねても、クラシックをある程度知っておくということは重要だというのはよく聞く話。

ジャズならまだしもクラシックだなんて完全に門外漢な僕ですが、今回はジャズプレイヤーがクラシックを知ることの必要性について書いてみたいと思います。

1.演奏技術の向上につながる

まず一番初めに思いつくのは「演奏技術について」間違いなくこれでしょう。

頭の中で鳴っている音のイメージが実際の音に直接反映されやすいトランペットの場合は特に重要であると言えます。

トランペットでなく、例えばギターなどでは楽器自体の構造が異なっていたりということはありますが、基本的に音の源となる何らかの振動を効率よく楽器全体に伝達し、最大限に響かせるというノウハウは楽器を演奏する者としては必ず持っておく必要があります。

なぜならそれはいわゆる「いい音」を創り出すために必要不可欠なことであるからです。

ベルリンフィルの主席トランペット、ガボール=タルケヴィです。 クラシックに馴染みのない僕からするとその音色を聴いただけで「ああ、なんだただの神か…」としか思えないような演奏です(笑)。

2.表現の幅にちがいがある

音色やテクニックだけではなく曲そのもののフレージングだって一見突拍子もなく、しかし強烈にカッコいいものが見受けられます。

ジャズの場合、特にスタンダード曲の場合はほとんどが歌ものを原点としていますからどうしても歌いやすい旋律が多くなってしまいます。

これは難解なフレージングは素晴らしくて、キャッチーなものはダサいとかそういう話ではありません。

ジャズスタンダードのように美しく歌いやすい旋律以外のものにも積極的に触れなければ音楽表現の幅は乏しくなってしまいます。

突拍子もないフレージングだけならばジャズだってコンテンポラリーやフリーインプロビゼーションの世界では珍しくありません。

しかしそれを例えばオーケストラという規模でしかも綿密な計算のもとに作曲され、もの凄いダイナミクスとともに演奏されるものと比べてしまうと「表現の幅」という観点でのみならばちょっと分が悪いと言わざるを得ないのが事実です。

ジャズで難解なメロディを持つものというと僕は真っ先にこの作品が思いつきます。

このアルバムの作者、ウィントン=マルサリスがクラシックに造詣が深いのはもちろん偶然ではないでしょう。

ここをご覧になっているジャズファンやクラシックに詳しい方からすると異論はあるかもしれませんが、僕から見るとクラシックという音楽は「なんでもあり」の音楽のように思えます。

確かにクラシックだって一定のフォーマットや決まりがあり、その中でいろいろこねくり回して曲を作り上げていくのでしょう。

しかしジャズと比べるとその幅の広さは無限と言っては言い過ぎでしょうが、それに近いものがあると感じます。

ジャズとクラシックの差はどこから生まれるのか

さあここから話が盛大に脱線して参ります。

頭の体操といきましょう(笑)。

この2つの音楽の差はどこから生まれるのでしょうか。

1つは先にも書いたとおり編成の差というのは大きいでしょう。

ジャズでよく組まれる編成である少人数なコンボやビッグバンド(数人〜17人程度の編成)と、数十人からなるクラシックのオーケストラでは単に音の強弱の幅だけ見ても全くかないません。

しかし、もっともっと根源的なところまで突き詰めるとクラシックはその発祥に宗教的特性を帯びているところに違いがあるのではないでしょうか。

日本人は世界的にもその意識は低い方だといわれていますが、人間というものは「神」のためなら何でもします。

カトリック教会であるサグラダ・ファミリアなんてもう100年以上も工事中ですし、世界の歴史を少し齧れば宗教のためにどれほどの血が流されたことか容易に窺い知ることができるでしょう。

そんな中にあってキリスト教の強い影響下にあり、クラシック音楽発祥の地であるヨーロッパで音楽だけが宗教と無縁であるはずがありません。

全てがそうだというわけではありませんが、神のためにもしくは宗教に絡んで音楽を作るということが日常的に行われてきたはずです。

神のために音楽を奏でるというのはなにもクラシックだけでなく世界各地で古くから行われてきたことです。

しかしことさらヨーロッパではキリスト教というゆるぎない勢力が存在し、なおかつ中世から現代にかけて経済や文明が一定規模を下回らなかったことによってクラシックという音楽(このくくり方は非常に乱暴でありますが)が継続的に発展してきたことが影響しているのだと思います。

例えば同一地域であっても民族や宗教が入れ替わってしまったり、もしくはそこで生活する人が音楽にかける経済力を持たなければその地の音楽が発展し続けるのは難しいことです。

他方ジャズはどうでしょうか。

ジャズスタンダードの歌詞を見れば分かることですが、ジャズで主題として扱われるものの多くは恋愛に関することです。

ゴスペルなどの分野に入ってくると宗教色は強くなってきますが、クラシックが宗教と共に歩んできた時間に比べれば圧倒的に新参者です。

宗教、もしくはスピリチュアルなものとジャズとの融合が一段と進んだのはジョン=コルトレーン以降ですが、これはさらに新しい時代のものです。

ご存知「至上の愛」。

このアルバムの製作に当たってはコルトレーンの宗教観が色濃く反映されていると言われています。

1965年の他のジャズと聞き比べてみればお分かりになると思いますが、音楽を創る上での動機が異なれば音楽はこうまで姿を変えるということなのでしょうか。

・・・とまあ全くもって話が脱線してしまいました。

今回はクラシック、ジャズという2大音楽のみをもの凄く大掴みに取り扱ってみましたが、その音楽のルーツやそれに影響を及ぼすエネルギーの異なる音楽に触れるということは今まであなたの気づき得なかったヒントを生むかもしれません。

ジャズをジャズらしく、もしくは逆に一部のフリーインプロバイザーが行うようにそこから逃れたものをそれらしく演奏することに何の芸術的価値があるのでしょうか。

新たな、そして素晴らしい芸術を生み出すためにはどんなことが必要であるか、たまに考えてみることは決して無駄ではないはずです。



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1986年生まれ。中学生から吹奏楽を通してトランペットの演奏を始め、高校生からジャズに目覚める。その後、原朋直氏(tp)に約4年間師事し、2010年からニューヨークのThe New Schoolに設立されたThe New School for Jazz and Contemporary Music部門に留学。Jimmy Owens(tp)氏などの指導を受け帰国し、関東近郊を中心に音楽活動を開始。金村盡志トランペット教室でのレッスンを行いながら、精力的に活動を続けている。