江戸スタイルの納豆汁でご飯をかっこむ

納豆汁

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かつて日本人は、大したタンパク質をとっていないにも関わらず古代ローマの奴隷もびっくりするほどよく働いていた。

特に江戸時代は鳥だのウサギだの、ももんじ屋ではいのししや鹿などは食べていたものの(落語の演目「二番煎じ」でもいのしし肉の鍋が登場しますよね。聞くたびに牡丹鍋を食べたくなります)現代人よりも質素な食生活をしていたにも関わらず、農家だの飛脚だの大工だの漁師だのとなかなかな肉体労働を今ならブラック企業認定されるほど行っていました。

江戸時代といえばすべて人力で、耕作機械だの負担軽減バックパックだの建設機械だのモーターボートだのなく、あってもテコの原理だの転がり摩擦だのを利用した人力をベースとした発明ばかり。

とにかく体を動かし続けることで生活していた訳で。

一方現代に生きる私、モジカル編集長のじさとし。

モジカル運営会社の野地サイクルでは自転車の修理や販売なども行います。

この修理作業時、重量30Kgを超す電動アシスト自転車を作業台まで何度も持ち上げる、大きなチャイルドシートの取り付け・取り外しを行う、硬く固着したパーツを腕力と気合いのみで取り外す、など、肉体労働が多数あります。

これらの作業には専用工具などがあり、滑り止めとクッション性能のいいグローブなども完備され、安全に作業でる専用スペースなど働きやすい環境を整えています。

が、めっちゃ疲れる。

腕パンパンだし、なんならしゃがみすぎで股関節がきしむ。夜にもなったらもうクタクタ。

どう考えても江戸時代の庶民よりもいいものを食べているはずなのに。なんなら労働環境も断然いいはずなのに。

なのに、なぜ、江戸時代の何倍も働くことができないのか。

道具や環境でないならば体づくり。つまり食生活に問題があるのかもしれない。

と言いましても、これまた江戸時代より圧倒的に栄養状態もいいはずなんだなあ。

タンパク質や栄養素の摂取量で言えば数十年前から見てもだいぶ整えられた食生活で。

本来僕の体はターミネーターのシュワちゃん、午後のロードショーの勇姿あふれるジャン・クロード・ヴァンダムよろしく、ムッキムキで精力的な男になっているはず。

うーん、いっそ江戸時代の庶民と同じ食生活にしてみるか。もしかしたらそっちの方がいいのかもしれない。

などと考えていたのですが、そもそも江戸時代ってなに食べてたっけ。

池波正太郎作品などを読みますがなにぶん武家の話が多く結構豪華な食事。

もっと庶民の食事をと持っている資料をいろいろ探しましたが、これが意外とない。

封建制の社会では庶民の生活はなかなか資料が残っていないか。

なんて思いながらいろいろあさり、なんとか見つけ出したものを読みすすめていくと納豆汁の話が複数出てきます。

ひょんなことから知りましたが、江戸時代の食事では納豆汁が食卓のスターであった、との、ことなのです。

納豆について調べる

納豆といえば現代ではご飯にかけて食べる納豆ご飯を想像されると思いますがこれは実は比較的近代の食べ方らしい。

あ、こういうのはすべて諸説あり。ね。

今回の内容はすべて諸説ありです。資料によって書き方がちがったりもするので、僕の認識がずれていることもあると思います。

ざっくりこういう説もあるのか、くらいの認識で。

なにぶん庶民生活の資料は正確なものが多くないので、資料の中でも推測と資料的事実が入り交じっていて、著者さんの意見なのか巷間において事実と認定されていることなのか分かりにくいところもあるんですよね。

また話を納豆に戻します。

そもそも納豆は日本食唯一のものであるような感覚がありますが、実際にはアジアの広い地域で今も食されています。

なんて話をすると、インドネシア近郊で食される固形の納豆であるテンペなど、糸を引かず揚げたり焼いたりして食べたり、調味料として使うものを想像すると方も多いでしょう。

しかして実際には、いわゆる糸引き納豆という混ぜると糸を引く日本で主流の納豆も食べられているのです。

タイのトナオなんてまんま日本の納豆と同じ見た目です。

このへんの話は資料として読むよりもノンフィクション系の作家、高野秀行さんのエッセイで読んだほうがおもしろおかしく知れます。

もちろん糸引き納豆も調味料として使われたり、焼いたり揚げたりもされるようですが、ご飯にかけるような形で食べることもあるそうで、身近な食材なのに知らないことがあって驚きました。

ご存知だと思いますが、そもそも納豆は日本発祥ではありません。

大陸経由で日本に伝来した外来文化です。ただしいつ伝来したのかは推測にしかならず、確実な資料はなし。

おまけに、どこから来たのか、についてはかつてのアジア文化の中心であった中国由来ではないかと言われていますが、中国には納豆という言葉がないなんて聞いたこともあります。

余談

国文学をやっていた知り合いにこの納豆の話をしたら面白いことを聞きまして。

納豆と豆腐の名称を逆にしてみて、とのこと。

漢字を分解するならば、「納める(おさめる)豆」と「豆を腐らせたもの」となります。

“納める”とは物体などを容器に入れることを指します。

豆腐は大豆を煮だして作る豆乳を容器に入れて固めたもの。納豆は大豆に納豆菌を加え発酵(“腐らせる”は現在では悪い菌が繁殖することを指しますが結果の対象を人間本位ではなく自然界に定義するならば人間に害のある菌もない菌も同じく繁殖するため発酵と腐るを同義と捉えることもできるようなできないような。ここではかる〜く考えましょう)させたもの。

そう、納豆と豆腐の名称は逆にするとその食品の作り方を表す漢字になるというのです。

伝来時に逆になったのか、巷間に流布する際に間違って伝わったのか、なんて、まったくこれが正しいという確証はありませんが、いろいろな視点で見てみると面白いですね。

ほかにも納豆についての語源説みたいなものはいくつかあり、どれも説得力が高く、全部正しく見えるから楽しいです。ぜひ調べてみてくださいね。

さてどこから来たのか分からないものの、日本の食卓のスターまでのし上がった納豆汁は、江戸以前にも資料への記述はあるものの、やはりいつ頃から食べられていたかは正確ではないようです。

ですが納豆汁の歴史は古く、千利休が茶会の懐石料理のお椀として出したような記録が残っているそう。

これはおそらく茶会記に記述があるのではと思います。

茶会記とは茶会の開かれた日付、亭主のお名前(茶会の主催者のこと)、使用した茶器(掛け軸や花入れさまざまなものを含めて道具組みともされます)、供した懐石料理や茶菓子、来訪したお客さんのことなどを細かく記録したもの。

意外とその茶会で起きたことなども記載されていて、資料的な側面としてもおもしろい。

千利休などが活躍した時代よりも前、1533年には初めての茶会記が記されていて、これは奈良の漆屋を営んでいた商人で茶人の松屋の当主が3代にわたって記していた松屋会記というもの。

全3巻ながら現在は写本のみが保存されています。

その後の茶会記とちがって様式だってはいないようですが、やはり茶会についてのことが記されていて、将棋の棋譜が1200年代から残されているように茶会記もまた古くから連綿と記されてきた記録です。

さて、そんな茶会記にも記述があるであろう納豆汁、千利休は精進料理の一品としていたようです。

なにぶん殺生を嫌う精進料理ではタンパク質の摂取を生麩や大豆料理で凌いでいました。

納豆は栄養価的にも風味的にも非常によい食材だったでしょう。

しかし糸引きの状態で出すのでは確かにお茶のために空腹をしのぐ料理としての役割を逸脱してしまう。

茶碗は回しのみしますから、納豆の後は・・・、ちょっとね・・・。

汁椀の形にしたのはなんとも精進料理を取り入れた懐石料理らしい使い方です。

さて、時は代わり戦国時代から江戸時代。

庶民の生活に根ざした納豆汁。特に朝には江戸市中の皆が納豆という言葉を聞いていたそうです。

なぜならこの時期、朝に納豆売りが街を歩き、「なっとう〜、なっと」などと言いながらかけ声よろしく納豆を売り歩いていたんです(このかけ声にはいろいろこだわりもあるみたいですが今回はスルー)。

この際に納豆のみならずネギをきざんだものや豆腐なども一緒にセット販売していたというのだから納豆汁の大変な人気が伺えます。

もしかして、この納豆汁。丈夫な体の秘訣ではなかろうか。

そういえば故みのもんた氏が納豆がうんたらかんたらと言ったおりには納豆が売り場からなくなるほど売れていたのも覚えている(でもデータねつ造があったようなことも覚えている・・・。古い記憶で真偽はいかに・・・)。

よし! 前置きは長くなったが、江戸時代の人のような頑丈な体を作るために納豆汁を食べよう!

納豆汁のレシピを考える

さて、ようやく納豆汁を作るところまでたどり着きました。

あらためて見てみると、納豆汁のレシピは簡単そうに見えます。

まず納豆をきざみすり鉢で軽くすり、出汁に入れ、ネギ・豆腐を加え、一煮立ちしたら味噌を加え完成。

簡・・・単・・・?

よく考えたら江戸時代は食材流通が現在とまったくちがう。現代風に作りたい訳ではない。

あの! まだ文明が開化する前! 日本人が元気だった頃の納豆汁を食べたい!

のであればレシピは少し考える必要があるな。

まず納豆ですが、大豆がちがいます。

今の大豆は大分改良されており、たとえば枝豆なんかは本来大豆の若いものを使用していましたが、現在は枝豆用に品種改良されたものが多く、納豆も納豆用の大豆を使用していることが多いでしょう。

スーパーの納豆売り場に行くと小粒のものが多いですが、以前お醤油屋さんに聞いたところでは豆腐や醤油、味噌には大粒、ないし中粒のような比較的粒の大きな大豆を使用するそうです。

日本での大豆栽培は古くは縄文時代から行われていますが、食べるものの安定供給が難しかった江戸時代くらいまでにあえて可食部の少ない小粒を栽培するとは考えにくい。

くわえて豆腐と一緒にセット販売していたことからも、もしかして豆腐用の大豆を流用していたのでは。

なんて仮定を設けて小粒ではなく大きめの粒の納豆を使用することとします。さすがに当時の品種は揃えられない。

さて、続いてネギ。

ネギは池波正太郎作品では根深などと記述されることもありますが、江戸時代には既に現在のような白ネギも栽培されていたようです。

なにせ食材流通の悪い時代ですから、江戸の街で食す食材の多くは江戸産です。

そもそものネギはおそばの鴨南蛮の「南蛮」がネギを指すとおり、南蛮渡来(アジアからきたの意)の野菜。

日本に入ったのは関西方面からで、その際は葉ネギだったようですが、関東の冬の寒さに耐えられるようにと根の方からすこしずつ土に埋めていくように栽培し、土に埋もれた部分が白い葉鞘(ようしょう)となり可食部の多く食べ応えのあるネギになっていきました(ネギ栽培は本当に大変)。

収穫時には地中に隠れる葉鞘の部分の先の根が深くまで埋まっていることで根深ネギとも呼ばれ、関西で主流の葉ネギとの違いを表していたようです。

ちなみにネギのみの味噌汁を江戸では根深汁とも呼びます。

学生時代に剣客商売や鬼平犯科帳を読みふけっていたころにはとくネギの味噌汁を作って根深汁と呼びながらすすったもんで(これがなぜか根深汁と思ってすするとうまいんです)。

現在まとめられている江戸東京野菜を見てみるとこのネギは千住ネギ、もしくは千住一本ネギと呼ばれています。この名称自体は江戸時代よりも後の呼び名のよう。

江戸時代に食べていたものは当初が他の藩から、次いでこのネギと在来の品種を交配させたネギを食すようになり、後年千住ネギと呼ばれるようになったみたいです。

ちなみに千寿葱というものもありますが、これはまた別のブランドネギです。

糖度が高く火を入れると甘いネギだそうで。取り寄せて食べてみたい。

さて、とりあえず江戸中期以降はいわゆる現在と同じ白ネギを食べていたようなので、こちらはいつも頼む八百屋さんのネギで問題なさそうです。

本来は千住ネギでいきたいところですが、神奈川では見つからない。

お次は豆腐! 江戸時代は木綿豆腐が主流でした。そもそも納豆売りが天秤棒に入れて売り歩くには柔らかな絹ごしなど選ばないでしょう。これは木綿で決定!

問題はここから。こういう汁椀で重要なのは、そう、出汁です。

現在で想像するところの出汁、つまり合わせ出汁というものはそもそもが京・大坂で花開いた文化。

鰹と昆布を使ったものは北前船という北海道、当時の蝦夷が島から大阪までの航路で廻船を行っていた商船のおかげで、北海道の昆布と大阪で人気であった紀州の鰹節が出会いグルタミン酸とイノシン酸という成分ががぷり四つに組み合って爆発的な旨味を発生させました。

紀州以外にも鰹節生産は行われていたのでこちらもまた諸説あるようですが、江戸でも鰹節は下り物と呼ばれて人気を博し、江戸中期以降には武家以外でも親しまれたようなことは書かれていますが、う〜ん。

江戸時代の庶民で鰹節と昆布の出汁。どうも信憑性がないのですが・・・。

昆布はもともとは朝廷への献上品となったほど高価なもの。鰹節も現在であっても高価なもので、結婚式の引き出物にされることもあるほど。

つまり庶民にとってハレの日の食べ物なんですよねー。

それが北前船の西廻りの航路を延ばし大坂から江戸までいけるようになり、流通を広めたのは河村なにがしという江戸の商人であったと思います。

江戸の商人が大きく関わっているのだから、ある程度優先的に動いていたのかな。でも昆布は関西でいいものは取引されきっていたなんて記録あるし、ちゃんと流通してたのかな〜? 関西からの下り物が庶民に・・・。

なにを悩んでいるかというと江戸時代、江戸では竈の使用は一日で1度だけ。朝に1日分のお米を炊いておひつに入れ、布団などの中に入れて保温していたそうです。

それでも朝食以外では冷や飯になるので、冷たいまま食べたり、お湯を注いで(お湯は火鉢や囲炉裏などで沸かして)湯漬けにしたりして食べていました。

一汁一菜で米、汁物、漬け物程度(江戸時代後期に七輪が普及し焼き魚がつくこともあったようですが基本はこれ)、それで朝に昆布と鰹節か〜。

江戸の長屋で毎朝、鰹節を削って(削り節などないため)昆布と出汁とってる姿が想像できないんですよね。

なにせ火力調整が利かない竈だの火鉢だのでぐらぐら煮る訳ですから、封建制の強い管理統制されご禁制の多い江戸市中で鰹節を庶民が日常的に使うとは思えない。

正月なんかならいざ知らず。

納豆汁はすり鉢ですりつぶすことで納豆自体を出汁代わりにしてお出汁は入れないことも多かったようです。

でも、江戸中期以降はなにか使ってたと思うんだよな〜。

この時代庶民の出汁の素というのは結構たくさんありました。

出汁を使うという慣習は存外昔からあり、古くは鎌倉時代の厨事類記(ちゅうじるいき)にはタシ汁という言葉があります。

これは魚用の調味液のことらしい、なんて言われていますが、いわゆる「だしじる」の始めではないかとのこと。しかして真偽不明です。

それ以前にもお寺で野菜のお出汁を使っていた記録があったり、700年代に鰹と思われる魚を干したものを煮出したような記録があったりと出汁をとる文化は広く日本全国にあったはず。

江戸時代初期の料理本「料理物語」には精進料理の出汁に昆布を使用する記述もあるため、出汁をとって汁物にするのは身分、階級問わず浸透していただろう。

でも、昆布と鰹節はやはり先述の理由から日常食への使用は考えづらい。

とすると、煮干しかなあ。

本来はこちらも関西の文化で、関東では西よりも遅く煮干しの文化が広まりました。

今も関東では煮干しの出汁を使うお店なども多くないですよね。

でも、東京湾は結構小魚いる。川は物流にも使用されていて江戸中に伸びていた。海からの汽水域には小魚もいたはず。

よし! 今回は煮干しでいく!

さあ、ようやく頭の整理がつきました。

さっそく江戸っぽい納豆汁を作りましょう。

あ〜、疲れた。

江戸っぽいレシピで納豆汁を作る

納豆汁

さて、まずは小粒ではない納豆。

ほんとに売られているのが小粒ばっかり。探すのに手間取りました。

それから悩んだ出汁。煮干し。今回はうるめイワシ。

イワシは江戸後期に七輪が普及すると盛んに焼かれるようになりました。

やっぱこれだろ!

そして根深、つまりネギと木綿豆腐。

まずは下ごしらえ。煮干しの頭だけとって水に浸しておきます。

一晩いきたいところですが忙しい江戸の民が前の晩から浸すことはしてなかったんじゃないかな。

一応2時間程度水にしておきました。

で、本来なら弱火でじっくりいきますが、なにぶん江戸時代に火加減の調節など無理。

竈は米炊き用であっても囲炉裏や風炉のようなもので火力は常にマックス近いでしょう。

中火で火加減を変えることなくグラグラいきます。

その間に納豆の支度を。

軽く刻んだ納豆をすり鉢にいれ、

納豆汁

すり鉢で練りつつ潰します。

納豆は旨味のカプセルみたいなものですから、よく潰せば汁がうまいはず。

昔の庶民は家族構成が多いですから、人数分取り分ければ具材は少なくなるだろうし、かさ増しできる汁がうまくなければ米が食べ進められないはずです。

出汁が取れました。

アクもとりません。だって贅沢だから。

納豆を加えてひとまわし。

このとき火は消しています。

さすがにグラグラに煮立っているところには入れないと思うんですよね。

ついで豆腐。

ネギを加えまた中火でグラグラいきます。

うん。

あとは味噌ですね−。

茶懐石で著名な辻留の辻嘉一さんに師事した方が母のお料理の先生だったため、僕も味噌は数種類を合わせて使います。

春先は白味噌を多くし、寒くなるにつれ赤味噌を多くする。

赤味噌だけならば3種類程度、家庭で食べるなら2種類、を今も守っています。

が! 江戸時代に江戸で白味噌はないでしょう。白は関西の文化です。

しかも米を多く使ったのが白味噌、麦を多く使ったのが赤味噌です。

江戸市中の庶民が米をふんだんにつかった味噌を食べるとは思えない。赤味噌でいきます。

合わせ味噌もやってなかったと思います。当時では贅沢過ぎる。

赤味噌一種でいきます。

それから通常よりも多めで。

江戸時代の町人は肉体労働が多かったので塩分補給に味噌汁が必須でした。しかもお米をたくさん食べるので味付けも濃いものを好む。

ふたたび火を消して味噌を混ぜ込み。

よく溶けたのちに完成です。

思いついてから調べて食べるまでに1週間。長い道のりだった。

納豆汁

こちらが、のじさとしの考える江戸レシピの納豆汁の朝食です。

第一走者。納豆汁選手の入場です。

こいつに振り回された記憶が強く、少々の怒りを感じつつも立ち上がる香気に心躍ります!

味噌と納豆ってこんなに合うのか。すばらしい。どことなく甘みを感じるような、納豆の香りはするのにえぐさがないというか。

うまそう。

第二走者、白米選手です。

米は本来雑穀でしょう! ええ! 分かっています! 江戸時代に白飯を腹パンパンなんてそうはない! 江戸中期以降の一部町民程度でしょう! しかし! いつもお願いする米農家さんから今日精米したてが届いたんです! もう! 袋あけた瞬間からうまい米の香りが! これに雑穀を入れるなど! できない!

僕は現代の自然食ブームにのっかった人々よろしく、カエサルにナイフは突き立てられない!

よって白米でいかせていただきます。

ひょー、白飯最高−。

あとは大根のぬか漬けです。

ウチのぬか床でいつもより長く、塩辛くなるよう漬けました。

大根は江戸野菜の中でも非常に人気が高く、江戸時代もよく食べられていました。

江戸時代近辺はネズミ大根といって小さくずんぐりした品種が主流だったようですが、徳川綱吉の指示で現在のような大きな可食部がある練馬大根などが使われるようになったとか。

これには江戸時代のビタミン不足による脚気が影響していて、雑穀米ならいざしらず、一部の身分の高い人は地方から参勤交代などで江戸に訪れ、白米ばかり食べビタミン不足になり脚気をわずらっていたそうです。

白米は大分栄養ないですからね。江戸に行った者ばかり同じ症状になるということで江戸患い(えどわずらい)なんて呼ばれたそうです。

さて、江戸幕府はこの事態を重く見て他藩から栄養価の高い大根をもらい脚気防止をし、のちに品種改良を行い大きく可食部がたくさんある練馬大根を栽培するよう指示。

大根が今のような形で栽培されるようになった。

という説があります。

まあ、これが事実かは別として練馬大根は江戸の民もよく食べていたとのことなので、ぬか漬けはやっぱり大根だろう。

ということで大根です。ちなみにきゅうりの漬け物が流行るのはもっと後で、この時代のウリ科の漬け物と言えば白瓜だった、というのはまた別のお話。

納豆汁

さて、さっそく納豆汁から。出汁をとった煮干しも入っています。

本来煮干しは出汁をとりきるほど強く煮こむことができるので基本的に出汁がらとして捨ててしまいます。

すまし汁とちがって食べておいしいほど味を残すなと習っていますが、今回の主旨では貴重なタンパク源ですから。

納豆汁

では。ずずりと。

うん! うまい! 塩味は濃いめにしてあるので当たり前ですが、とにかく火力を落とさず煮込み続けることで煮干しのクセのない旨味たっぷりの汁物に仕上がりました。

大根もちょっと辛いな〜。いつもなら失敗ですが、今日は!

すぐさまこいつをかっこむ! うん! 米がすすむ!

納豆汁

そして出汁がらの煮干しと納豆汁をすする! おお!

合うな。これは合う。

納豆をかみつぶすと不思議なほどうまい。大豆の味や香りが口中に広がり、これに米が加わると少量の汁をすするだけで米が進む。

え、どうしよう。これ、納豆汁1杯でごはん、おかわりできちゃうよ〜〜。

納豆汁

少々取り乱しましたがこれはいける。

決して具だくさんではないです。ただし、豆腐、ネギ、納豆が噛むまでは大して味わい深くなく、汁を飲み込んだあとに噛むと急に姿を現します。

つまり汁を飲み込んだあとに米を口に運び噛むと味が表れる。

なんて考えられた調理法なんだ。これは米以外では合うものが見つからないかもしれない。

口中調味の根幹をなすな・・・。

大根も合うな。まったく風味を邪魔しない。そもそも大根のお味噌汁ってすごく滋味があって、術後に食欲のない人でも病院食に大根のお味噌汁が出たときは完飲している人がいるというのは実体験で見てきたほど。

納豆汁と合わない訳がない。

この時点で既にご飯2杯目です。

最後にこの納豆と味噌の麹がまざった部分で、米をかっこむ。

うまかった。これはうまかった。

ぜひともお試しいただきたい。今回は原始的なレシピを考えていましたが、難しく考えず味噌汁にきざみ納豆を入れる、もしくは納豆パックからそのまま入れるだけでもいいかもしれない。

大豆の旨味カプセルを噛みしめ、米を食う喜び。

これはDNAに刻み込まれたものかもしれません。なんだか知らんがとてつもない満足感です。

これなら僕の体は1カ月後には頑丈で屈強なものになっているでしょう。

え? 記事を書いている今はどうか? まあまあ、まあまあ・・・

納豆汁。単純に調理するだけならめちゃくちゃ簡単なんですが。こういう食文化、知らないことが多いよなあ。

教えてくれる人もいないし。今回10冊くらい本だの雑誌だの見ていましたが、こういう昔ながらの食事や文化を、学校とかで教えてくらないかしら。

こんなおじさんになるまで知らなかった。

知らないで食べるのと、知って食べるのでは意味合いがまったく異なることに気づかされました。

食後はもちろん、当時を再現して白湯。ちゃんとコーティングされていない鉄瓶で淹れました。

 

簡単調理で安く、米も進み、栄養価もある。これならおかずもいらない。

だけど、これが普及しない。そして、食が足りない人々もいる。米が高いというのもあるかもしれまんせが。

なにか大切なものをなくしてしまって、思い出せないような、そんな気分でお湯をすすってお別れです。



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大学卒業後に新聞社に入社、その後ビジネス書の制作を得意とする編集プロダクションに転職。フリーでWEBや紙媒体での企画、編集、執筆、撮影などを担当し、現在はモジカル編集長。趣味の料理が高じてレシピ記事なども制作。