【終戦の日】すぐ近くにある戦争

8月15日は終戦の日だ。

昭和20年の今日この日、第二次世界大戦における太平洋戦争は終わりを迎えた。

敗戦を受けた日本の歴史は、今に続く、沖縄の米軍基地報道や、日米地位協定にかかわる報道が伝える通り。

終戦から今まで、敗戦というものに終わりはないようだ。

戦争を知らない世代と言われる僕は、実体験としての戦争を、口伝や本から知る。

戦争について、“今”聞くことといえば、中東などの戦争を伝える海外メディアの報道ばかり。

随分遠くにあるからか、どこか現実感がない。

それでも、僕の周りに戦争の“痕”は残っている。

知らない、ということは許されない気がして、自分の間近にある、戦争の“痕”を巡ることにした。

小田原市の戦争遺構

僕の住む小田原市は、相模湾と呼ばれる海と温泉地として名高い箱根と隣合っている。

食材は海の物、山の物とそろい、冬でも雪はほとんど降らず、過ごしやすい気候。

文化人、財界人、そして日露戦争後の日本軍将校達など、この近辺で余生を過ごした。

小田原市 空襲の記録の掲示
一見、太平洋戦争の被害はあまり見られない、牧歌的な風景も並ぶ。

それでも、空襲を受けたことが記録されている。昭和20年の今日も攻撃を受けたそうだ。

この空襲の記録は、日本側の記録のみで、米軍側にはないそう。

これは、一説によれば、群馬県の伊勢崎市と埼玉県の熊谷市をおそった爆撃機が、帰り“ついで”に小田原市を襲ったからではと言われている。

余った爆弾なんかを、捨てる“ついで”に投下したと予想される。あまりにふざけた話に、いらだちを覚える。爆撃機のパイロットは、どうかしているのではないか。

知り合いに、米軍の空襲時に防空壕に隠れたという人がいた。

残念ながら、ご病気で亡くなってしまったので、今お話をお聞きすることはできない。

8月15日の空襲であったか、それ以前のものであったか失念してしまった。

しかし、以前お話しした際、お母様が防空壕から顔を出したとき、榴弾の破片にあたり亡くなってしまったことをお聞きした。

いつもニコニコとした出来たお人だったが、悲しそうに笑う姿は、とても忘れられない。

目の前で、急に大切な人の命を奪われたお気持ちはどのようなものだったか。想像もつかない。

三の丸小学校旧校舎跡地 日本軍 第八十四師団司令部痕
空襲の痕について、本などの記録を調べた。考えていたよりも“痕”はすぐ近くにある。

三の丸小学校の跡地だ。跡地は、小田原城の城址公園内に置かれ、戦中には城内国民学校と呼ばれていた。

現在の三の丸小学校の校舎は、近在に移転されている。旧校舎に、決号作戦(※)によって配備された第八十四師団の司令部が、一時置かれた。

1カ月ほどで現松田町の松田国民学校に司令部は移されたそうだ。三の丸小学校の旧校舎は、僕が数年間通った校舎でもある。

※決号作戦
アメリカ軍の日本本土上陸に備え、各地方に戦闘部隊を再配備した作戦。合わせて、地域住民から15〜60歳までの男子、17〜40歳までの女子を戦闘に投入する「義勇兵役法」を発し、自治会ごとに区分けして訓練を行うなど、本土決戦に備えた準備を整えていた。

三の丸小学校旧校舎跡地 日本軍 第八十四師団司令部痕2
画像の、水たまりの向こう辺りが、校舎の入り口だったように思う。

自身の学舎が、戦争の痕だった。字面にするのは難しい、なんとも言えない感情が出てくる。

社会生活のなんたるかを学んだあの校舎は、さまざまな想いを内包していたようだ。

根府川駅 米軍空襲跡
次に、JR東海道本線の根府川駅を訪れた。非常に蒸す1日で、汗をかきながら写真を撮った。

小田原駅から熱海方面に2駅。田舎の駅らしい、無人駅だ。この駅は、昭和20年7月に機銃掃射による空襲を受けた。

画像中央の斜めに入った柱の傷が弾痕だ。特に掲示板などの表示などはない。

上りホーム、今もまだある。

根府川公民館 元日本兵の句碑
近くにある現根府川公民館には、高射砲陣地も作られたそうだ。現在は元日本軍兵士による句碑がある程度。

根府川公民館から見える海
この公民館からは、海が見える。

電車からの根府川の海
電車からも見えた。晴れていれば、もっと美しい。

この場所目がけて機銃を放てるというのは、ちょっと信じられない。もちろん、高射砲を設けることも。

 

小田原市 北条氏土塁 米軍爆撃跡
戦争遺構について調べている際、米軍機の空襲による爆撃が、北条氏の築いた史跡に落ちたという話を聞いた。

フェンス越しにしか見ることはできないが、その威力を知ることができると。

現場に赴くと、掲示看板があった。画像にもある通り、この爆撃で30名が亡くなった。

小田原市 北条氏土塁 米軍爆撃跡
場所は、小田原駅からは少し離れている。蓮上院というお寺の裏側。

このフェンスの向こうにある。住宅街の真ん中であった。

小田原市 北条氏土塁 米軍爆撃跡
フェンス越しの画像では分かりにくいが、深さ1m以上はえぐれているのではないだろうか。

昭和20年から時が経っている。幾分、えぐれた部分も埋まっているだろうに、こんなものが近くに落ちては、無事では済まない。

このときの爆撃で亡くなった死者30名の方を想い、胸がつまる。

小田原市 米軍からの爆撃 新玉小学校
近くにある新玉小学校(当時:新玉国民学校)にも、爆弾を落とされたそうだ。

このとき、教師1人、用務員1人が亡くなっている。

爆撃機からは、教師の持つチョークや、用務員の持つホウキが、武器に見えたのだろうか。

新玉小学校から移動
新玉小学校から少し移動する。雨もすっかり上がった。

小田原市 田中建設 米軍による空襲跡さきほどの小学校から、自転車で10分ほど。

市内の建設会社事務所は、軒先に空襲による弾痕の跡を掲示している。

小田原市 青橋 米軍による空襲跡
青橋という、市内では大きな橋の建て替え時に保存された。

小田原市 青橋 米軍による空襲跡
鉄板を貫通する威力は、人間には大きすぎる。

死亡者の数というもの

ぐるりと戦争遺構を巡ってみると、暗澹たる気持ちに包まれる。

まずもって、これだけの痕があることを予想していなかった。

8月15日早朝の空襲では、家屋約400軒の焼失、そして12人の方が亡くなったそうだ。

東京大空襲では、10万人以上の方が亡くなった。12人を、被害は小さいと見るだろうか。

そんな馬鹿なことはない。

“ついで”に空襲を行ったアメリカ軍にも憤りを覚えるが、日本軍にも、疑問が多く残る。

昭和20年4月に発せられた決号作戦は、日本本土を守るためのものではなく、アメリカ軍に被害を与えることで、敗戦時の条件を少しでも有利にしようという目的があったそうだ。

この作戦の元、義勇兵の訓練をした民間人の証言は多い。物の本によれば、訓練内容には“肉攻”があった。

肉攻とは、上陸したアメリカ軍戦車に爆弾を持って突撃し、爆破する特攻作戦だ。

文献によれば、棒爆弾を持った人間が先に戦車のキャタピラに突っ込み、動きを止めた後に、爆弾を抱えた人間が本体を爆破する。

リヤカーを戦車に見立てた訓練をしていたそうだが、リヤカーには戦車に付く機銃はない。まして、リヤカーと戦車では、あまりにスケールが違う。

国を守るためではなく、有利な降伏をするために、特攻させられる民間人。

それを推し進める軍。“有利な条件”とは、誰のためのモノだ。歯ぎしりこそすれ、とても容認できない。

実際の攻撃前に終戦を迎えたことで、肉攻も、ほかに考えられていた玉砕覚悟の作戦も回避された。

良かった、とは素直に思えない。言葉もない、というのが正しい。

ここでは取り上げていないが、戦争で生き残った人々の証言を読み進めていくと、沖縄に対する想いを語る人がいる。

観光地として有名な沖縄は、この決号作戦などの準備のために、いわゆる“捨て石”として戦地となった。

それこそ、多くの民間人が被害にあい、あの美しい海に身を投げた人も少なくない。

現地の平和祈念公園に行ったことはあるだろうか。

ただ海で泳ぎ、酒を飲み、踊るだけにはできない、筆舌に尽くしがたい悲しみが流れている。

名前だけが刻まれた無数の墓石を見るにつけ、今も本土の人間を受け入れてくれる島民には頭が下がる。

なにかと、バカンスを楽しむ地と捉えられがちだが、それは沖縄県民の心の深さによるものであるようだ。

1記事で取り扱える情報量を超えている。

調べた全てを記すことができない。また、僕自身の理解も、あまりに浅薄で、情けなさに泣けてくる。

当時を知る人、また当時の様子を伝え聞いている人から聞き及んだことだけでも、まだまだある。

小田原市に駐留した軍人達は、民家のみかん小屋や寺社仏閣に寝泊まりしていたし、塹壕掘りについての記録も多い。

それに伴う諍いもあった。食事についても、書きたいことはたくさんある。

また、当時の親戚宅で、駐留軍人の軍馬が死んでしまった際の話も聞いている。

どれも、一筋縄で終わるような話ではない。

こちらも、まとまり次第載せていこうと思う。

原稿を書いているときに思い出した。

10代の半ば頃だったか、自分の最後について、ふざけて笑いながら友人と話したことがある。

僕はたしか、悪ぶってふかしたタバコの、寝タバコで火事にでもなるんじゃないか。そんなことを冗談めかして話したと思う。

空襲で亡くなった人々は、その10年前に爆弾や機銃によって亡くなることを想像していただろうか。

そして、今、昔の僕と同じようにふざけて話す学生が、彼らと違う最後を迎えると断言できるだろうか。

10年後、20年後の世界を作るのは、今の大人だ。

戦争を、対岸の火事とせず、どうすれば争いなく過ごせるのか、必ず答えを見つけ、ここに書きたいと思う。

それが、今の僕にできる大人の責任ではないか。今それを書けないことは、誠に勉強不足な自身の怠慢に他ならない。

今日“終戦の日”は、自分の周囲にある“戦争の痕”を調べてみるのはどうだろう。

僕は本や文献を当たっていたが、各自治体は戦争遺構についてまとめている。案外すぐに見つかるはずだ。

僕たちは、過去の苦しみの上に住んでいる。あなたの隣にも、戦争の痕は必ずある。



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大学卒業後に新聞社に入社、その後ビジネス書の制作を得意とする編集プロダクションに転職。フリーでWEBや紙媒体での企画、編集、執筆、撮影などを担当し、現在はモジカル編集長。趣味の料理が高じてレシピ記事なども制作。